いまさらですけどポテトサラダ論争。
「ポテトサラダを買おうとしている母親に向かって、高齢男性が、
ポテトサラダくらい作ったらどうだ、と言った」というやつです。
この高齢男性がどうかと思う、ってのは私も同意できるんですけど
反論の方向がちょっと違うんじゃないのと思っている。
ポテトサラダは面倒なら?
反論のうち結構な、いやかなりの数が「ポテトサラダは手間がかかるんだ」「作ってみれば苦労がわかる」みたいな内容になっている。
確かにポテトサラダは面倒だ。
高校時代に某弁当屋でバイトしていた時、サラダの中で圧倒的に手間がかかったのがポテトサラダだった。
計量もじゃがいもの皮むきも、野菜のカットも済んで届くのに他と比較にならないほど手間だった。
家でも滅多に作らない。
面倒だし、惣菜屋でうまいやつの作り方を知っている分妥協する気も起きない。
でも、じゃあ、簡単な惣菜は買ったらだめなの?
揚げ物は家で作らないという家もあるでしょうし、
焼き鳥みたいに家で作ると設備的にいまいちなものもある。
しかし「ポテトサラダは面倒だ」という反論だと
「グリーンサラダくらい作ってやれ」
「カットレタスなんざ買うな」
「きんぴらは時間あるときに常備菜として作るのが常識」
「餃子はせめて冷凍焼いてやれ」
の可能性はあるってことになる。
「スーパーの総菜は油が云々」なのか、「全部買うのは愛情不足」なのか知らないけど、
買うことに対する罪悪感のようなものが大前提としてあって、
その中で<例外として認める>に入っているのが「ポテトサラダ」「育児疲れ(弱者)」だっただけで
根は高齢男性と同じではないかと思うんです。
元気な感じ悪い母親が「マジだりぃしwww」とか言いながら子供をその辺に走らせ、簡単な惣菜を買い漁ってるシチュエーションだったら
「惣菜買っていいよ」って意見が同じ数だけ出たとは思えない。
(「育児放棄するくらいなら」って頭についたら多そうだけどね)
多様性の多様ってなによ
多様性多様性といろいろ騒がれていて、流行にしろ自分の職場にしろかなり変わってきていると思う。
しかしこれもよく見ていると、先ほどの話と同じで
気付いた感じのいいものについて、「認めてあげるリスト」に追記していくだけのような感じがする。
で、リストにないもの、なんとなく好きになれないものをどう扱えばいいのか、
まるでちょっとした災難みたいに困惑する。または無視する。
大人なんて付き合いたくない人と付き合わなければ済むし、
会社に入りたがってたら入れなければ済むからね。楽なもんです。
私は嫌だけど誰か引き受けてという話。
もちろん犯罪行為、違法行為なんかは認めてはいけないんだけど、
こういう形で「声の聞こえた嫌じゃない少数派だけ認める=多様性の尊重」としてしまうと
声も聞こえないほどの少数派は今以上に生きづらくなるのではなかろうか。