クズは定時で帰りたい

趣味の時間を捻出するブログ

趣味のランク

私の趣味はウォーキングと裁縫と編み物だ。

あとここでだらだら文章を書くのも趣味かもしれない。

本当はライヴ行くのも好きなんだけどね。ないから。ライヴが。

 

 

仕事の休憩中に編み物をしているとやたら褒められる。

すごいとか、いい趣味だとか、私はそんな素敵な趣味がないとか。

でも果たしてこれっていい趣味なのか?

 

 

豊かなハンドメイド

編み物と裁縫は「ハンドメイド」「ハンドクラフト」とまとめられる。

なんかね、これ「豊かな人生を送っている証拠の趣味」らしいよ。

 

この時代でハンドメイドは、例えば昨年の春の

「マスクがないから性能が劣っても作らねば」

みたいな特殊な事態を除いて100%自己満足である。

(ちなみに私はマスクを作らなかった。マスクあったし)

余程のこだわりがない限り、世の中のものは自分で作るより買ったほうが安い早い上手い。

安さと引き換えに失うはずの時間や品質でも大体勝てない。

「素人たる自分の作れる範囲において自分の好み」ということ以外、物としてのメリットは特にない。

 

自分の好きなように生きるのは豊かな人生であるかもしれないが、

これは「好きなようにする」ことを豊かと言っているわけで

「ハンドメイド」が豊かとは言っていない。

好きなようにするのはすなわち趣味であり、

この豊かさはハンドメイドに限ったことではない。

※「編み物が好きでもゴム編み止めは苦痛ですが?」とかそういう話じゃないからね。

 

 

生産だから豊か?

じゃあ自分の行いで物が生まれるからハンドメイドは豊かなのか?

 

100%消費である読書や観劇は豊かではないのだろうか?

読書なんて環境がしっかりしてないと目に悪いし、

観劇なんてその間携帯の電源切るわけで

あなたに至急連絡を取りたい人にしてみれば迷惑である。

あと多分目にも良くない。

でもそういう趣味があるって聞くと「すごい」「素敵」ってなるじゃん?

 

楽器を習うと「その楽器を演奏する技能」が生まれる。

友人から結婚式の余興で演奏を頼まれることはあるかもしれないが

「私は楽器が演奏できる」と自分で言わなければ依頼されない。 

「お客様の中に、素人に毛が生えたレベルの三味線弾ける方いませんか!?」とはならない。

普通のマンションで能管など吹いたら近所迷惑だ。

でも「かっこいい」「難しそう、すごい」ってなるじゃん?

 

スポーツだって何も生まないし、

武道なんてやった日には「通り魔などに下手に反撃できない」なんて実生活のデメリットもあるが

「すごい」ってなる。

 

別に有用な生産などしなくても豊かになれる。

 

 

そもそも趣味って豊かなの?

ここまで「ハンドメイド以外の趣味も豊かさにつながる」ということを書いてきたけど

そもそも人生が豊かになるためには趣味が必要なのか?

 

趣味がないメリットもある。

自分で「これが趣味だ」と自覚していると、物事の判断にバイアスがかかる。

他のもっと良いことにエネルギーを使えたはずなのに

趣味があるせいで優先順位が狂ってつまらない選択をしている可能性がある。

 

趣味だからという理由で、本当に楽しいかの冷静な判断がされず期待して行動してしまう。

「え?クリケットの観戦?いやそんな時間あるなら編み物したいなぁ」という私の感想に

クリケットが編み物より面白くない根拠はない。

自分の思い込みで人生が豊かになる可能性を捨てているかもしれない。

 

趣味に優劣はないし、無趣味な人を

「時間の無駄」

「つまらない人生」

「ハンドメイドをやっている私の人生のほうが豊か」

などと言うのはおかしな話だ。

 

 

自己満足だ

もう一度言うけど趣味って自己満足なのよ。

下手だから失格とか意味がないとか知識がないなら本当に愛してないとかいう話ではないし

(試合するならルールは守らないとだめだが)

仮に上手くても側から見たら考えれば考えるほど無意味で無駄な可能性が高い。

 

無駄、意味ない、ダサい、暇なの?

実際に言うかどうかは別として、

それはハンドメイドだろうがスマホのゲームだろうがフットサルだろうが同じだ。

ハンドメイドだけが心を豊かにして実用的で崇高で余裕を感じさせ、

技能が必要でありすなわち人間として他の趣味をする者より優れているというわけではない。

 

しかしどういうわけか選民思想みたいなものを感じるのよね。

あれはなんなのだろう。

ハンドメイドをしない人とは違う、しない人より人格が優れている、みたいな。

ほんとそういう人には申し訳ないけど、

私というクズがハンドメイド大好きだからな。