最近よく言われている「自己肯定感」。
日本人はこれが低いそうで、低いことは良くないことらしい。
ガールスカウトの指導者研修でもこういうネタがあった。
まあ重要な何かなんだと思う。
でも違和感があるのだ。
ひとつは「本当に自己肯定感が低いのか」。
もうひとつは「自己肯定感ってそれでいいのか」。
本当に自己肯定感が低いのか?
過剰な謙遜疑惑
前にも書いたけど、無駄で過剰な謙遜を美徳と思っている人がいる。
この手の人はTPO関係なく(たとえ匿名の調査でも)
とりあえず謙遜しておけば大丈夫と思っているので
本当に自己肯定感が低いかどうかはわからない。
話が成立するとか、正しいデータ集計とかはどうでもよく
美しい自分を通すことが最優先なのだから。
「傷ついた」と言って怒る人
これ何が傷つくかというと、自分。
傷ついたら困るような自分がいる。
「私はこれでいいと思っている」から
「これを最悪と言うなんて!」となる。
「私はこれ最悪だと思う」で
「これを最悪と言うなんて!」にはならない。
実際は「理想はこれだけど現実的にはこの辺かな」
くらいだと思うが、肯定には変わりない。
自分の行いは周りにすべて受け入れられる前提で生きているのだ。すごいよ。
単純に自己肯定感を認識できていないだけでは。
自己肯定感ってそれでいいのか?
たしかに長所は自己肯定の要素ですけど
先述の研修では、(ルッキズムの否定というのもあったので)
「誰にでも長所はある」「人は見た目じゃないんだ」
みたいな話になっていた。
参加者の話だと、「自分なんて全然ダメ」が
すなわち自己肯定感低いということになっていたりする。
でもとりえのない人はいるし、見た目は人を構成する重要な項目だ。
問題は「とりえがない→私は存在していてはならぬ」の「→」以降であって、
とりえがないことではない。
そもそも人間の長所なんて簡単になくなる。
私の子供の頃の長所、「人見知りせずいつも笑顔」だぜ?
ねーよ今!!
自己肯定って「ヨシ」であって、「いいね!」ではない。
とりえがないと肯定できないなんて考えてる人間が、
他人の自己肯定感を心配してなんとかしようとしている場合ではないのでは。
必死のポジティブ
自分は現状を受け容れていて(肯定)、その上でどうしようか考えているのに
「大変だ、純粋な前向きとはいえないこいつは人生が苦行だ」みたいな発想の連中が
その固い頭で超苦しいフォローをしたところで本人に何がもたらされるというのだ?
もし他人が長所を無理に引き出し押し付けたところで、
絶対に比較は存在し、優劣はあり、ときに選択されない。
いい人だからって何人も雇えない。日本にいれば結婚相手は1人しか選べない。
選択されなかったことで崩れてしまう事柄に自己肯定感の根拠を求め、
一件落着としてしまっていいのだろうか?
足がかりにはいいかもしれないが、よしこれで完了ってのはないだろ。
気にする人の悪循環
そもそも自己肯定感なんて気にしているのはいつからなのか。
「自己肯定感が低い」と聞いて「なるほどモヤモヤはこれだったのか」となる人は別にいい。
大して苦しんでなくても、
いきなり「自己肯定感は高いですか?」と訊かれたら
「そ、そういや低いかも・・・?」と思ってしまう。
だって考えたことないし、100%生きづらくないなんてことは滅多にないのだ。
よく当たる占いみたいな感じ。
「え?あ、どうだろ」となっていると今度は
「自己肯定感が低いのはとても悲しいことです」なんて言われたりしてしまう。
これまで考えたことのない欠点をひとつ発見した。
・・・なんかおかしくないかねこれ。