クズは定時で帰りたい

趣味の時間を捻出するブログ

本当にみんな?

自分が困っている時に主語をでかくする人がいる。

自分はスタンダードなまっとうな人間で己の願いは人類の願いという自信もすごいし、

知り合いでもない人も自分と同じであるという発想もすごい。

 

大体の結論は

「みんなが自由に○○できるようになるのが良い社会」

になる。

私を困らせるものは社会の害悪である、と。

前世は神でもしていたのだろうか(2回目)。

 

 

誰かしら困るよね

まず「みんなが自由に」という話には、

誰かの正当な権利と自分の正当な権利が相容れない可能性は考えられていないことが多い。

知らない事柄をナメていることが前提にある。

 

たとえば終電。

終電は他の路線と接続を取るので、乗り換え駅で恐ろしく待たされることがある。

乗り換えない私にしてみれば迷惑な話だ。

こっちは定時に乗っているのに、

どこかの路線が駆け込み乗車を受け入れるなどして

ちんたら走ってるのに付き合わなければいけない。おかしくないか?

なんなのよ20分待ちって。

 

仕事で遅くなったとか言うけど、そんなの言い訳だ。

現にこっちも仕事だ。時間も守れない奴が仕事だとか言うな。

鉄道会社はこういうアホを見極めて乗せないなり追加料金を取るなりの制度を設けるべきだ。

 

たとえば仕事。

アイドルになりたい。

野太い声で面の皮と皮下脂肪の厚い35歳醜女。

音域は松本ソウさんと大体同じ。リズム感はない。っていうかそもそも音痴。

まあまあ耳が悪いからトークも無理かと。

 

こんなアイドルは他にいないだろうから個性があっていいと思う。

こういう人も大ヒットさせるのがプロデューサーの仕事であり、

そんなことすらできないようならプロ失格、事務所自体ポンコツ

 

個性の大きさとやる気はトップ女優くらいあるので

彼女と同じくらいのギャラをくれて、イケメンと共演して文化人とコラボしたい。

ブスは無理、リズム感ないなら無理なんて

生まれ持ったもので差別しないでほしい。

私には職業選択の自由がある。

こういう芸能事務所しかない社会は良くない。

 

・・・というような主張を私はしないが、

内容はさておきこんなスタンスの人がたくさんいる。

 

 

本当にみんななの?

みんなをすぐ持ち出す人に欠けている視点はもうひとつある。

「本当にみんなだと自分が譲る側になるかもしれない」ということである。

 

たとえば私が体調不良で病院までバスに乗る。

ところが次の停留所で

「すみません、体調が悪いもので・・・」と席を譲るよう頼まれる。

 

他に元気な人がいれば「私も風邪なもので他を・・・」で済むが、

「いや私はあなたよりひどい風邪なんです」「私はインフルエンザ」「私は喘息」「私は足が悪くて」

「私はバスで絶対に座って移動するためにお金払って始点まで戻って20分待ったんですよ」などとなれば

バスの中でみんなで何らかの比較をし、

負けてしまえば40度の熱があろうと立っていなければならない。

実際にはこんな奇跡は起きないので、なんとかなる。

 

もう少し身近な話だと、例えば近所のスーパー。

ある日いきなり営業時間が17時まで・土日休みになった。

私の定時は17:30なのでもはや物理的に買い物ができない。

昼休みにダッシュでスーパーに行き、店員さんを捕まえて事情を聞いてみると

「弊社には土日や夜に働きたい人がいないんです」

「いやー困りますって」

「お手数ですがあなたが平日や昼間休みの仕事に転職なさるか、

有給をお使い頂くなどでご対応ください。

それだけ働いてたら有給もお持ちでは?」

「いやー・・・」

こっちは数十年後にはあるかもしれない。

 

 

みんなじゃないからなんとかなる

クズという少数派の私が言うのもあれだけど、

みんなじゃないから成り立ってるものは結構あるわけよね。

そこを本当にみんなでも成り立つようにすると、

他のところで手放すものがたくさん出てくると思う。

 

すぐ「みんな」って言う人は、

本当にみんなになっても競争などにならずみんなが快適でいられる自信はあるんだろうか?

まさか「競争になっても自分は勝つから快適」という自信をすりかえてはいないか。

それでも自信があるならまっとうな主張だと思うし実際そういうものもあると思うけど、

違うならただの傲慢だよね。