クズは定時で帰りたい

趣味の時間を捻出するブログ

かまいたちと甘え

未だに私が「そうよね・・・」と考えさせられているのが

かまいたちのネタである。

2019年のM-1でトトロのネタをやってたのだが、珍しく番組を観ていて出くわした。

ちょっとこれは偉そうな奴に10回くらい観てもらって

「これでスピーチネタを練ってみよ」って言いたい。

 

 

見たことない人がいたら申し訳ないので面白さを省いて説明すると、

・私は「となりのトトロ」を見たことがない

・多くの人が見たことある

・見たことない人が見たことある人になるのは簡単だが

見たことある人が見たことない人になることは不可能

という話。

 

これ、笑ったんだけど笑ってから「そうよね・・・」と感銘を受けたのよ。

「ツ、イ、ラ、ク」の三ツ矢君状態よ。

 

 

経験者は未経験者になれない

私が経験したのは

・それなりの貧乏

・Iターン郊外生活

・ブラック勤務

・CADいろいろ

・会社都合の失業

などなど。数えきれない。

 

逆に経験していないことも数えきれない。

 

今後私が横領やセクハラをやれば横領やセクハラの経験者にはなれても、

じゃあCADのことは忘れて0から学び直しましょう、と言われたら

それは無理である。既に学んじゃってるから。

 

 

経験者は経験した上で生きてる

以前似たようなことを書いたけど、普段ふれあえる経験者というのは

・経験した

・それを人に語る余裕がある

という経験以外のフィルターが存在する。

経験して脱落した人はいちいち話をしないし、

経験したが語る(=得たものを整理する)余裕などない人は誰かとふれあう暇がない。

経験者は「いける人」または「知ったか」しかいない。

 

未経験者はこんなことわかっているのだが、経験者は忘れている。

なぜなら余裕があるから。

いや、登山20年やってますという人に

「どうしてバス停ひとつ分歩くのを拒否するんだ」とかなら気持ちはわかる。

ずぶの素人を呼びつけて「努力でできる」「私も苦労した」って

言う気持ちはわかるし自分も言ってんだろうけど、

大きな溝は間違いなくあって、その溝に屍やらゾンビやらがうようよしているのだ。

 

主張のエネルギーの3割でも「大きな溝があるんだ」という意識に使えたら

あんな態度にはならないのではといつも思う。

気をつけたい。

 

逆もあるのよ

しかし経験者は未経験者になれないのだから

「私のことなんて分かってくれやしない」というのも当たり前の話である。

わからないよ。こっちに来れる人かどうかも分からないんだから。

そんなのが分かるならキャリアアドバイザーとかで食ってるわけで

あなたの目の前には今いませんよという話だ。

 

未経験者が経験者になることは可能性はあっても逆は無理だ。

じゃあより分かり合うためには経験者になるしかない。

 

分かってほしくない?

だから私は「やればわかる」で片付けて話を進めようとするのが嫌いなのだ。

やってないんだから分かるわけない。話を進める要素にするのがおかしい。

こんなのは愚痴でしかない。

私みたいにだらだらブログでも書いておくのがちょうどいい。

 

やってないんだから絶対分からないんだけどそういうものとして分かれ、となると

理論もへったくれもないわけで

「あなたの個性」「生き残った人の共通点」とか

そういう短絡的なものを理論のようなものとして受け容れる羽目になる。

先駆者が心地よくいられるだけなのだ。

 

 

お互い分かりあえませんよね、あははおもしろいわ、というふうになればいいんだけど

経験や知識やらで上下関係を作ってから相互理解を目指して

分からないのはどっちが悪い、みたいなことになるのはなんなんでしょうね・・・