クズは定時で帰りたい

趣味の時間を捻出するブログ

マッチポンプな家事

私は家事が苦手だが、それ以上に「分担すること」が超めんどくさいので

家事担当をしている。

根っからのマイペースなので仕事で分担して家でも分担する精神的ゆとりがない。

ひとりでやらせろ。

 

あと夫と私の仕事環境や体質が全く違うので

夫が食関連を仕切ると私は激太り、夫はスキニーファット一直線である。

その昔、コンビニでサラダ巻き買って「最近野菜摂るようにしてんねん」とのたまい

ガチ説教したのを今も覚えている。

 

家事が減らねえ

昔から思っているし、以前書いた気もするが

家事、多くね?

 

いやもちろんハウスキーパーで食ってる人がいるので家事が少ないわけないのだが

それにしても家事が多い。

洗濯機と食洗機と風呂釜自動洗浄と掃除機があるが、

なんというかそれで減った分、クオリティを上げてしまってて

結局総労働時間がそこまで減ってない気がする。

向上心のない私は時間が多少浮いてるけどそもそも昔からズボラなので

やっと常識の範囲の家になった感じ。

 

たとえば柔軟剤。

柔軟剤を使う場合、使い方はただ柔軟剤投入口に注ぐだけだが

・香りを吟味する

・買う(液体の運搬)

・在庫を気に留める

という手間も増えている。

ちなみに柔軟剤がなくて生活に支障をきたす人はかなり少ない。

そんな些細なこと・・・と思っても洗剤と柔軟剤が同じペースで減るわけではないし

洗ったものがフワフワでいい香りなくらいで上記3点の手間が吹っ飛ぶとは思えない。

いや吹っ飛ぶ人はやればいいけど。

 

あ、依存性のある香りが出るようにして

「洗濯物干したいいいっ!!」とソワソワして冷や汗出てくるタイプとか出たら買うかも。

絶対ヤバい薬だけどな。

 

 

効率化の条件

それでもやはり効率化したいらしいが、それにも条件がある。

 

・家事において圧倒的権力がある

「協力し合おう」と言われるわりに、「偶然気が合う」みたいなミラクルを除けば

誰かが他のものをコミュニケーションという名のねじ伏せで方針を決める必要がある。

効率化って変更だから。

個人の運用で「私は効率化した、あなたはご自由に」とやると

仕事でもそうだけどだんだん「あの人はやってくれるのに・・・」となる。

 

これで「手伝い」というスタンスはだめだ、主体性を持て!と言われても

そんなに主体性があったら仕事でもっと稼いでて今頃家事代行頼んでいるような。

 

・ゆとりがある

日本の家はいろんなものを必要な時に出したりしまったりしまくる前提の広さになっている。

(それでも広くなってきたと思うが)

そこにあれやめるこれはこうすると改革するならスペースか金は絶対にいる。

もしくは我慢という精神のゆとりがいる。

 

しかしそのゆとり、本来ゆとりがほしいから得たのではなかろうか・・・

 

手間の量では

なんとなくだが、一定の手間を無意識に欲しているのではという気がする。

家事がアイデンティティになっていたりするのかもしれない。

家事を刷新することも、精神的に負荷を与えて変更のための新設作業という手間がかかる。

 

料理は「うちのごはん」とかで作れば化学調味料入ってない料理ができる。

種類も多いし外食と組み合わせたら財布のダメージ少なめで自炊回せるんじゃないかと思う。

ところが「うちはレトルトだし」みたいに謙遜の材料にしている。

こんなのは自分で切らずに散髪へ行くようなもんで、謙遜する話ではない。

と言いつつ私もあれこれ作ったりはしているが。

作りながら「こんなに砂糖入れるんなら買っても同じでは・・・」とか思ったり。

 

この「手間がほしい層」と「ガチのずぼら」では

意識のすり合わせがかなり難しいのではという気がしている。

 

 

楽って罪悪?

楽とは罪悪なのだろうか?

いやもちろん基本的な事柄は覚えておく必要がある。

「雑巾は絞らないと拭いたものがびちゃびちゃになるし雑巾も臭くなる」とか

「みりんは甘い」とか、「醤油をだばだば入れると煮物はヤベェ」とか。

そこがわからないと金と時間とゆとりをひたすらむしり取られるだけだ。

知った上で楽をするなら別にいいんじゃないのかね。

 

この手間至上主義みたいなものはなんとかならないのだろうか。

特に最近はなんだかもう見ててしんどいわ・・・。